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雲仙岳

以前、島原の乱を題材にしたお芝居を聞きまして、その中のナレーションで「原城近くの畑地では、今なお、土の中に白骨を掘り当てることがあるという」という一節がありました。

原城ってのは1638年に起きた島原の乱で、天草四郎など一揆軍が最後に籠城したお城です。で、そこを掘ると今だに当時の人骨が出る、と言っているわけです。

これ、本当かなぁ?と思いつつも、この話を聞いてから、私の中で島原の乱というものが、おとぎ話か何かのようなものから、日本の血の歴史としてよりリアルにインプットされ、興味を持つようになりました。

2017年1月、九州に訪れた私は、レンタカーで長崎まで向かい、原城があったまさにその地にやってきたのでした。今回はこの原城と島原の乱について、写真と共にその血生臭い歴史について語らせて頂こうと思います。

島原の乱最後の地、原城とその周辺

グーグルマップで見る原城の位置

原城があるのは赤ピンが立っているところ、南島原市の中にあります。熊本県から海を越えて直線距離で測ると50kmくらいなんですが、半島をぐるーっと回って行かないといけないので、陸路だと250kmくらいになるというなかなかアクセス困難な場所にあります。

原城跡を背にして撮影。遠くに見えるはおそらく雲仙岳。このように、原城には何もない。

原城一帯

それどころか、断崖絶壁の崖だったりします。島原の乱での籠城中、兵糧が減ってしまった一揆軍は、海に降りて海藻を食べたりして飢えを凌いでいたんだとか。

ホネカミ地蔵

原城にあるこの地蔵は、ホネカミ地蔵と呼ばれています。乱が終わって約130年後の1766年に、有馬村願心寺の法誉上人が作ったと言われています。

「ホネカミ」とは「骨を噛み締める」の意味です。

原城があった場所だと思われる場所

お城があったあたりはこの通りの更地。何も残っていません。

天草四郎の像

こちらにいらっしゃるのが天草四郎の像。この人もかわいそうですね。真実はわかりませんが、若くして一揆軍のリーダーとして祭り上げられて、最期は晒し首ですからね。難儀なものです。

原城広場に立つ十字架

そんなわけで十字架とかもこれ見よがしに置かれています。

そんなわけであまりに何も残ってないので、憧れの地だったもののあんまり実感がなく、うーむと思いつつ帰ろうとしたところ、一人のおっさんが私の元にやってきました。

毎日原城にやってくる、名物おじさんから島原の乱エピソードを聞く

天草四郎の像のアップ

手にはたくさんの資料を持っていて、何かの勧誘かと思いきや、実はこの人毎日原城にきていて、訪れた人にいろんなレクチャーをしているんだとか。

高橋と名乗るこのおっさんの話が面白かったので、いくつか紹介します。

埋門跡

こちらは埋門(うずみもん)跡。

この辺の発掘はボランティアのおばちゃんが担当したそうなんですが、その発掘活動の際に、実際に人骨が出土したそうです。それにショックを受けたおばちゃんは活動を辞めてしまったそうです。

ということで、冒頭で紹介した「原城近くの畑地では、今なお、土の中に白骨を掘り当てることがあるという」という話はなんとまぁ誇張でもなんでもなく、事実なんですね。

宮本武蔵が投石を受けた現場

高橋さんは他にも面白い話をしてくれました。この島原の乱では、幕府軍側であの宮本武蔵も参戦したんだとか。

しかし、当時すでに高齢であった宮本武蔵は、一揆軍の投石によって足に怪我を負い、大した戦力にもならず戦線を離脱してしまったそうです。

宮本武蔵が被弾した場所もわかっていて、写真中央の木の向こう側だったと高橋さんが説明してくれました。

死者の復活を恐れた幕府軍は、お城も遺体も徹底的に破壊した

島原の乱の最後は、ご存知の通り幕府軍の勝利で終わります。負けた一揆軍は全員死刑です。中には逃げた(投降した)人もいるっぽいのですが、基本的には女子供も皆殺しです。

この時幕府軍は、一揆軍を殺して遺棄しただけでなく、その上からさらに解体した島原城の資材をかぶせて埋めたそうです。

日本では古くから「死んだら仏」の精神が根付いてましたが、ここまで圧倒的に破壊したのには理由があります。

それは、復活の防止です。イエスって磔にあって死んだ後、復活したって言うじゃないですか。そんなわけで、幕府軍は「キリスト教徒は殺しても復活するんじゃないか…?」と恐れて、遺体を徹底的に埋めたそうです。

「いやいや、いくら江戸時代といえど、死者が蘇るとか幕府軍も信じないでしょ」と思われるかもしれません。しかし、一揆軍は殺されるときに全く死を恐れなかったとも言われています。これから殺されるというのに余裕がある態度をとっていたため、幕府軍は「これはもしかしたら本当に復活するかもわからんな…」と思ったのかもしれません。

十字架と月

それだけでなく、単純に幕府の力を誇示したかったという狙いもあったかもしれません。ともかく、そんなわけで徹底的に破壊されてしまいました。

ところで、島原の乱のきっかけを作ったのは、この地を治める大名、松倉勝家の圧政&キリシタン狩りです。

幕府は彼の責任を重く見て、大名としては異例の斬首刑を命じたんだそうな。普通、大名クラスなら死罪だとしても切腹であり、その名誉は保証されます。それすら許さないということで、幕府は相当お怒りだったみたいです。まぁ、農民の溜飲を下げさせる狙いもあったと思いますが。

ちなみに松倉勝家の前にこの辺を統治していた有馬晴信も、いろいろあって幕府から切腹を命じられたと言われていますが、彼はキリシタン大名だったために自害することができず、斬首されたという記録が残っています。

で、ほとんどの農民が一揆に参戦したので、島原の乱後はこの地域の人口が激減したそうです。のちに幕府は移民を募って、この地方を復興させたんだとか。島原の乱で殺された人数は3万人にも及ぶと言われています。とんでもないジェノサイドだったんですね。

長崎駅近くにあった教会

とまぁこのような経緯があるので、ネット上の書き込みを見てみると「原城は強い恨みを持った農民の霊が出る心霊スポット」だとかなんとか言われてますけど、一揆軍が殺される時はこの世に未練を残さないで死んだわけだし(全員が全員ではないだろうけど)、一揆のおかげで圧政が落ち着いたわけだし、わりとみんなパライソで満喫してるんじゃないでしょうかね。

あ、あともしも原城に訪れた際に急におじさんに話しかけられたら、その人が高橋さんです(笑)是非色んなうんちくを聞いてってください。

この記事の撮影機材
カメラ1:RX100M3
カメラ2:iPhone7

原城の詳細情報

公式サイト:なし
住所:〒859-2412 長崎県南島原市南有馬町乙
電話番号:0957-76-1800(南島原ひまわり観光協会)
場所:Googleマップで見る

営業時間:いつでも
入場料:無料

備考:4月14日には原城一揆祭りがあるぞ